カンボジアの旅は珍道中だった。内戦中の国を観光するという、今思えばかなり無謀な行為である。四半世紀前のこと。不測の事態が起こっていたら、その後の戦地の事件で使われた「自己責任」という言葉で批判されたのだろう。

 

旅は、カンボジア難民の友人と酒を飲んだ勢いで決まった。彼は、戦争や虐殺で荒廃した母国から隣国タイに逃れ日本に定住した。工場労働でためたいくばくかの金で、首都プノンペンに残した両親の家を買いたい。酔いに任せ2人はボルテージを上げ、不動産購入と観光の旅を誓い合った。

 

1992年9月、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に自衛隊施設部隊が派遣された少し後のことだ。自衛隊初の海外派遣で報道はヒートアップしていた。集団農場での虐殺が明らかになったポル・ポト派が山岳地帯を拠点に政府軍と対峙していた。

比較的治安の良いプノンペンで両親の新居は簡単に見つかった。その後の観光は、わたしと彼、プノンペン在住の彼の弟、弟の知人の元政府軍兵士の4人で出掛けた。真っ赤なセダンの車を確保し、南部海岸のカンポートに向かった。

 

南下する国道沿いで検問する政府軍兵士に止められないよう、小額紙幣の札束を車窓からばらまいた。右側の山からポル・ポト派の狙撃兵が停車した車を狙っているとされた。兵士が札束を取りに行っているすきに検問をすり抜けるためだと説明された。

 

車窓の風景は素晴らしかった。米収穫は年に3回、農家は庭の果実を楽しめると難民の彼が自慢した。戦争の陰に隠れた本来の豊かさを実感した。カンポートには見事な白砂のビーチがあった。帰路のトラブルなど想像もしない4人は、民宿のベッドで復興の夢を見た。