8月11日は「山の日」だった。体力も気力も衰え、登山からすっかり足が遠のいたが、この日だけはある人を思い出す。妙齢の女性ではない。顔の皺が印象的な小柄なおじいさんだ。

 

名前は渋谷書策(かいさく)という。神奈川県西部の丹沢・表尾根で小さな山小屋を営んでいた。その場でコーヒー豆をひき、持参したカップに注いでくれた。その一杯で山道の疲れは吹っ飛んだ。登山者は親しみを込めて「かいさくさん」と呼んでいた。

 

質素な山小屋の片隅に座り小一時間、植物や動物、自然の移り変わりを話した。優しい笑顔に心を許し、下界での仕事や暮らしの悩みを打ち明けた。人間関係の不具合や仕事の失敗談には、いつも「つまんないことで悩んでいるんだね」と応じてくれた。

 

人生の大半を山小屋で過ごし、丹沢を象徴するブナの劣化をはじめとした自然の荒廃を見つめてきた。長い年月をかけた、人間の力の及びにくい営みの中に身を置くと、下界の出来事は些細なことと映るのだろう。こちらの些細な心配は吹き飛ばされ、軽くなった心で頂上に向かった。

 

おじいさんは2009年夏、93歳で亡くなった。その優しい言葉に癒やされた多くのファンがいた。自然保護に取り組む女性は、美しい花が咲く「秘密の花園」をそっと教えてもらったという。晩年は山小屋にこもりがちだった。最後まで、心から愛する森で暮らしたかったのだろう。

 

山に暮らし、何もかもを包み込み、軽妙な語りで人の心を導いてくれる仙人のような存在だった。もしかすると、本当に仙人だったのではないだろうか。おじいさんにはもう会えない。つらい時は「つまんないことで悩んでいるんだね」。そう自分に言い聞かせている。